唐津焼の陶芸家 井上浩一

唐津焼の源流と言うべき、李朝陶磁器の美しさに心ひかれて、人の心に優しくつたわるものが出来たらと思います。

武雄の焼物考

画像のクリックで拡大平成17年3月12日〜平成18年3月30日にかけて佐賀新聞に掲載されたものを抜粋しています。

著者 井上浩一

唐津焼という呼び名 大名が京、大阪に伝える?

 「一楽二萩三唐津(一井戸二楽三唐津)」と昔から茶道具の順位付けが言われていますが、いかに唐津焼が茶人に愛されていたかが、この言葉からもよくわかります。

 県内で古唐津がもっとも多く焼かれていたのは武雄市です。次は伊万里市およびその周辺部です。唐津市(合併前の旧行政区)には、江戸期の窯は三カ所ほどしかありません。それなのになぜ「唐津焼」と呼ばれるようになったのでしょうか。伊万里港から積み出された磁器が「伊万里」と言われたように、肥前地区の陶器が唐津港から船積みされたから「唐津」と言われるようになったと説く方もあるようですが、はたしてそうなのでしょうか。

 やはり文禄慶長の役の際、名護屋周辺に集まった諸国の大名や大商人たちが、お茶三昧にふけった結果、肥前地区の焼き物を唐津焼と呼び習わしたものが、京大阪で評判になったと考えた方が自然のような気がします。

 そのことが西日本や日本海側一帯で陶磁器の総称を「からつ」とまで呼ばれることになっていったものと思われます。それに、武雄で当時作られていた焼き物は、広く東南アジアにまで伝えられているのです。佐賀と武雄の誇るべき陶磁史の一端だと言えるでしょう。

焼成の始まり 400年前、黒牟田地区から

 約四百年前、朝鮮から武雄に来た深海宗伝、百婆仙たちは、武雄市北西部の武内町黒牟田地区やその周辺の山間部に窯を築き焼き物を焼きました。これが、武雄での焼き物の始まりといわれています。宗伝はじめ多くの陶工たちが、陶磁器の生産に携わったものと思われ、それは一帯に残るおびただしい窯跡数からも窺い知ることができます。

 これらの中には、国の重要文化財に指定されている窯跡などが四カ所(小峠、大谷、錆谷、物原山)もあります。それに意外と知られていないのですが、武雄でも白磁を焼いていたのです。有田で磁器の焼成が始まったころと同じ時期ではないかと考えられています。残念ながらほとんど完成を見ることなくうち捨てられた陶片から往時をしのぶのみです。これらを見ても、武雄がいかに貴重な地域かお分かりいただけると思います。

 その武内町に「飛龍窯」という巨大な登り窯があるのをご存知でしょうか。三月に火を入れ、窯出しのイベントがありました。夜は千数百個の焼き物の灯籠に火をともし、幻想的な光景をつくりだしました。福岡、長崎からもたくさんの見物客があり、多くの感激の声を聞くことができました。「いで湯と陶芸のふるさと・武雄」から佐賀のふるさと遺産である焼き物についての情報をみなさま方にお届けしていきたいと思います。

貴重な古窯跡 80カ所以上を確認

武雄市には全域に無数の窯跡が眠っています。JR佐世保線を境に北側を武雄北部系唐津、南側の古窯を南部系唐津と呼びます。その中でも北部の武内町には、武雄窯業草創期の貴重な窯跡が多数存在しています。400年以上も前に、多くの朝鮮陶工が山を開き、窯を築いて現在の「いで湯と陶芸のふるさと」の礎を作り上げたのです。

 千三百年の歴史を持つ温泉と四百年の伝統を誇る陶芸を持つ武雄は、実に恵まれたところといえます。温泉の象徴ともいうべき朱塗りの楼門と泉質の良さは、かなり知られていますが、武雄が焼き物の重要な生産地であったことは県内でも意外と知られていないのではないでしょうか。現在確認されている明治期までの古窯跡は、市内だけで80カ所以上に上ります。まだまだ確認調査されていないものも多数存在しているようです。

 しかし、それらの貴重な資料や遺産を市民でさえ見たり学んだりする場が、現在の武雄市にはありません。「いで湯と陶芸のふるさと」を真の意味で実現させるためには、日々微力を尽くしていかねばと、意気込んではいるのですが・・・・。

武雄古唐津の特徴 辰砂や緑釉技法も

四百年ほど前に武雄に来た多くの朝鮮陶工たちは、当初朝鮮風の刷毛目、三島、鉄絵などの技法を用いた陶器を焼きます。器の種類としては、皿・碗・小鉢・甕などを多く作っていたようです。つまり民衆が使う食器雑器類です。その需要は、かなりのもので大量に生産していたものと思われます。

 そのような中で、三島などの手のかかる製品は、少なくなっていき、日本人の好みや生活様式に合った焼き物へと変わっていきます。特筆すべきは、当時の朝鮮半島ではあまり見られない辰砂、緑釉などの技法も生まれてきます。これらは銅を使った釉で、焼き方によって赤く発色させたり緑色に焼き上げたりするものです。

 辰砂のものは、器全体に掛けたものや一部に流し掛けしたものがほとんどですが、緑色に発色されるものは実に独特の使い方をしています。もちろん辰砂と同じようにも使っていますが、鉄絵と合わせて大胆な松の絵の葉の部分だけに緑釉を塗ったり山水の絵の山や木々の部分に使ったりと多彩で武雄地域独特のものです。これを「二彩(鉄絵緑彩)唐津」といいます。甕や鉢、徳利などの大型の器に多く見られるのも特徴です。

伝統的工芸品「唐津焼」

 豊臣秀吉の朝鮮出兵から四百年。多少の変遷はあるものの、唐津焼は伝統の技術・技法を守り、現在に至っています。昭和六十三年には、経済産業省(当時の通商産業省)の伝統的工芸品(唐津焼)の指定を受け唐津地区で十九窯元、武雄地区で九窯元が伝統技法を守るために活動を続けています。これは、「伊万里・有田焼」の指定に次ぎ県内二例目の指定でした。

 現在、全国では二百六産地の伝統的工芸品が指定を受け、技術技法の保護・育成が図られてます。陶磁器はもちろん漆工芸、金工、織物、筆、和紙などの百年以上の歴史を持つ多くの工芸品がその対象となっています。現在、景気の低迷と生活様式の多様化などのせいか、多くの工芸品産地は苦境に立たされています。後継者不足で廃業の危機に直面している産地産業も多いようです。

 一度途絶えてしまった技術を再興させることは、至難なことです。そのために、国の政策としての措置が問われているのです。武雄地区にも貴重な伝統技法が残っています。私たちの「武雄古唐津焼協同組合」は、その技術技法の継承や後継者の育成、武雄地区の焼き物の展示紹介を全国展開するなど積極的に取り組んでいます。また、新たな製品の開発などの研鑽も重ね、現代のライフスタイルに合うもの作りにも挑戦しています。日本の大切な食文化を今一度見直すきっかけになればという思いも伝えていければと、精進の毎日です。