三島唐津 武雄南部系で多く焼成
絵唐津、朝鮮唐津などの唐津焼と並び、三島唐津と呼ばれるものがあります。三島手とは、印花文の一種で象嵌(ぞうがん)などとも呼ばれています。武雄南部系の窯で多く焼かれていたもので、なかでも大草野窯(塩田町)は、三島手の茶陶の優品を焼いた古窯のひとつに数えられています。大草野と隣接する西川登町一帯でも鶴の文様などを象嵌で表した大鉢などが、多く作られていました。
この技術は文禄・慶長の役で日本にもたらされたものですが、「三島」という呼称はどこから来たのか、よく分かっていません。巷間いわれている説は、静岡県にある三島神社の暦に使われている文字の流れが、三島手の器物の文様とよく似ていたため、そう呼ばれるようになったとされています。しかし、私見ながら、千年以上も前は日本から朝鮮半島を指して「御島(みしま)」と呼んでいたと言われています。この「御島」が「三島」に変わり、朝鮮半島から来た文物に「三島もの」といっていたものが、いつのまにか焼き物の印花象嵌のものを三島手と呼ぶようになったのではないかと考えています。
朝鮮唐津、奥高麗などの唐津焼の代表的な種類の言葉の語源もまだよく分かっていません。まだまだ、唐津焼に関しては未解明の部分も多く、武雄地区の古陶磁研究が進むことを期待せずにはいられません。それらの言葉とともに、技術技法を後世に伝えていくことも陶技に携わるわれわれの責務と思っています。
個性的な窯元 温か味のある土物焼く
現在、武雄市内には多くの窯元があります。伝統的な技法を大事にしながら制作する窯元や、新しい創作にこだわりを持って陶磁器の制作にいそしむ作家などさまざまな焼き物づくりの形態が存在しています。県の重要無形文化財指定を受けている作家も二人おられ、個性的な窯が多くあるのが武雄の特徴ということができます。そして、それらの窯元の多くが陶器と呼ばれる土物を焼いています。このことは歴史的に、唐津焼の主生産地としての伝統が深く息づいているといえるのかもしれません。
磁器と呼ばれる硬く白い器は、確かに清潔感があり強度もあります。それに比べて、陶器はもろく欠けやすいという難点があります。しかしなぜ、二千年以上も前の土器の時代から現在に至るまで、日本人の生活の中に連綿と土物の器が取り入れられて利用されているのでしょう。それは日本の生活文化の基本となっている「茶道」と深いかかわりがあることも否めないでしょう。土物の持つもろさがあるゆえに物を大事に扱う心、変化するからこそ自然の移ろいをそこに見るという自然観など、日本人特有の感覚が投影されているといえます。
また、先日の日韓陶芸フォーラムでも、韓国のオンギ(甕器)と呼ばれる陶器の壺・甕がさまざまな理由で見直されているという話も出ていました。私たちは、便利で合理性だけを追求する生活を送っているのではないでしょうか。パック詰めされたインスタント食品やレトルトの食品に囲まれた生活をいま一度見なおして、家庭でも土物の器を使って日本の食文化、生活文化について考えるきっかけにしてみてはいかがでしょう。次代をになう子どもたちの教育にもなると思うのですが。