唐津焼の陶芸家 井上浩一

唐津焼の源流と言うべき、李朝陶磁器の美しさに心ひかれて、人の心に優しくつたわるものが出来たらと思います。

高麗焼と南京焼 朝鮮陶工に関係した名?

 武雄地区では、陶器(土物)のことを「高麗焼」と言っており、磁器(石物)のことは、「南京焼」と呼び習わしていました。いつのころからそう呼ばれていたのか、また県内のどのくらいの地域で同じような言い方をしていたのか知る由もありません。少なくとも私の住む武雄南部では、現在でも「高麗焼」「南京焼」という言い方を年配の方々の間で聞くことができます。

 また、市内各所に不思議な地名も残されています。「ごうらく舞」「ひゅう楽舞」という地名や場所です。これらの地名は焼き物が焼かれていた地域にのみ残ることから、その昔、朝鮮陶工や陶磁器に関係したものと思われます。私の住む小田志という地区の奥まったところにある「ひゅう楽舞」というところには、大きな岩があり、以前は窯を焚き終わったあとなどに、その岩の周りに人々が集まって酒宴を催したと聞いたことがあります。

 唐津焼に今も受け継がれている貴重な「たたき」という大甕などを作る技術がありますが、作る時に使う道具にも「ときゃあ(とけい)」「しゅれー(しゅれい)」という不思議な名前が残っています。朝鮮半島にも同音同義語の呼称があることから、焼き物の技術とともに伝わってきたものと考えられています。焼き物に関する地名や名称に込められたものを伝えていくことも、私たち陶技に携わるものには大切なことだと思います。

大甕作り 貴重な「たたき」技法

 現在ではほとんど目にすることもなくなってしまいましたが、昔は米やみそ、水などの貯蔵用に使われていた甕(かめ)は生活必需品でした。江戸時代の前期ごろから、武雄地区では盛んにこの甕作りが行われていました。そして日本各地に出荷されていました。もっとも古いものは「寛永六年(一六二九年)」の銘が刻まれたものがあります。その大きさは一石二斗(約二百十六リットル)で、高さは九十五センチほどのものです。

 最も大きな甕は、昭和二十年に五石入り(九百リットル)のものが作られた記録が残っています。これは武雄市橘町の上野(かみの)で作られたもので、国内最大級の甕と思われます。上野地区の甕作りは、江戸時代に始まり昭和二十九年ごろまで続けられており、「肥前上野甕」として知られていました。

 その大甕作りの技術は現在、武内町の窯元などにわずかに残されています。「たたき」と呼ばれるその技法は、大鉢や壷(つぼ)の制作方法として生かされています。半地下式のろくろの上で太い紐状(ひもじょう)の粘土を輪にして積み重ね、内と外からあて木(トキャア)とたたき板(シュレー)を使ってたたき締め、薄くて軽くて丈夫な大きな物を作る。この「たたき」という技術も武雄地区の貴重な財産として残し、伝えていくべきものでしょう。

三の丸窯 文明開化を進める原動力

 昭和三十六年、武雄高校の校舎建設工事中に、五つの焼成部屋からなる登り窯が発見されました。塚崎城三の丸跡に作られたので「三の丸窯」といわれています。この窯は、武雄二十八代城主鍋島十左衛門茂義が天保年間に築かせた窯です。茂義は西洋の医学や兵学・科学などを積極的に取り入れました。当時、日本で初めての種痘や、佐賀本藩に先駆けて西洋式の大砲製造なども行いました。この時に重要な役割を果たしたのがこの三の丸窯なのです。

 その発掘陶磁片の中には、陶磁器の日用品に交じり、化学実験に必要な蘭引(らんびき)と呼ばれる陶製の蒸留器具や、大砲製造用の炉に使うための耐火れんがなども見つかっています。金を使って桃色に発色させる焼き物の彩色技法も、有田より四十年も前に試みられています。

 また、武雄では藁を原料として国内初のガラス製品の製造にも成功したといわれています。いかに茂義が進取の気性に富み、その結果が明治維新の文明開化を推し進める原動力になったことでしょう。現在、三の丸窯は保存のため埋め戻され、武雄高校の桜並木の坂を登った図書館のそばに窯跡を示す看板のみが立っています。数多くの試みがなされた三の丸窯は、窯業史上も貴重な窯といえます。

含珠焼 世界博でも高い評価

私の住む小田志(こたじ)地区は、江戸初期から多くの焼き物を焼いてきた、歴史のあるところです。周辺には弓野、庭木などの窯業地もあり、武雄南部系唐津焼生産の中心地だったといえます。江戸期には、庶民の使う皿わん、とっくり、すり鉢などの日用品を大量に生産流通させていました。今もたくさんの窯跡が残っていて、往時の隆盛がしのばれます。

 幕末のころから磁器の生産も始まり、明治に入ると優れた技術を駆使して素晴らしい製品が作られていきました。一八八九(明治二二)年、松尾喜三郎という陶工は、六角形の染付のタイルを考案し、嬉野温泉の風呂場に使われたりしました。

 また、一八八七(明治二十)年に樋口伍平、治実父子が含珠焼(がんじゅやき)といわれる、精巧な蛍手の製法の特許を取得しました。蛍手とは、白い磁器の生地の中に花模様などの穴を開け、釉薬でふさぎ焼き上げたものです。含珠焼は一般の蛍手より彫り文様の大きさが広く複雑で、まるで宝石を含んでいるような感じがするので含珠焼といわれたのでしょう。

 一八九三(明治二十六)年、シカゴで開かれてた世界博覧会に、この含珠焼が出品され、その美しさが高い評価を得ました。小田志の奥まった山の中に「含珠焼発祥の地」の石碑が残されています。しかし残念なことに、含珠焼の現存数は少なく、目にする機会もあまりなく今日では、幻の焼き物と呼べるまでになってしまいました。

武雄・陶器の世界展 江戸前期の唐津焼

 四百年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、連れてこられた多くの朝鮮陶工によって始まった武雄の窯業は、連綿と現在まで受け継がれています。この「いで湯と陶芸のふるさと・武雄」の地で、初の本格的な武雄古唐津焼の展示会が開催されています。

 一昨年の秋、東京の根津美術館で開催され好評を博した「知られざる唐津」展をぜひとも地元で開催したいという熱意がかない実現したものです。朝鮮陶工が始めた李朝時代の技法は、日本という風土の中で徐々に変化をもたらしました。その中でも武雄では、特徴ある象嵌や二彩による加飾技法が花開いていきました。

 繊細な櫛目に緑釉と鉄釉が流し掛けられた大鉢。象嵌を施した鉢や水指。牡丹の花を掻き落としで加飾し全体に緑釉を掛けた壺。大胆に松絵が描かれた甕など、武雄が誇る陶器の数々が展示され、また多くの陶片や出土品も分類されています。実際に古い陶片に触れられるコーナーなどもあり、四百年前の陶工の息吹を感じていただける内容になっています。

 武雄市図書館・歴史資料館で十一月二十七日まで開催されています。陶磁器愛好家のみならず、多くの方に武雄の歴史の一端に触れていただく良い機会だと思います。ぜひ同展へお出掛けください。

※上記の記事は平成17年10月20日に掲載された記事です。